
日本での占いの原点
日本での電話占いは比較的わかりやすく、日本で占いを始めて利用したのは卑弥呼だといわれています。
当事邪馬台国の女王であった卑弥呼は、国の重要な問題を決定したりするときに占いを使用しており、占いによって出た「神の言葉」を国策に生かしていました。
その後は、日本を収めるのに使われた占いに、「太占(ふとまに)」と呼ばれる占いが使用されていました。
これは鹿の骨を焼いて、骨に入ったひびを見て将来を占ったとされている方法です。
もともとは中国の殷の時代に生まれた占いの方法で、他の占いの方法とともに日本に入ってきました。
飛鳥時代になると、亀の甲羅の模様によって占いを行なう「亀卜(きぼく)」や「式占(しきせん)」という占いも持ちられるようになってきており、この「亀卜」は亀の甲羅を焼いてひび割れを見たもので、式占とは「式盤(しきばん)」や「ちょく」と呼ばれる計算道具を使って占いをするものでした。
特に飛鳥時代の天武天皇は、占いによる国づくりを行なった天皇で、これは神の言葉を大いに国策に取り入れたということを意味していました。
その後も日本では、平安時代や鎌倉時代になると占いが大流行するようになり、さまざまな占い方法が現れてきます。
陰陽師といわれる占い師が出現し始めたのもこの頃で、有名な陰陽師安倍晴明は平安時代に活躍した一人になります。
その後、室町時代には占い学校が設立されるようになり、江戸中期になると、新井白蛾によって「易者」が生み出されました。
これは、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉の元となった占いです。
さらに明治時代になると、高島嘉右衛門により高島暦が生み出されます。
この頃になると、占いは一部の人たちのものではなく、庶民のものへとなっていっていました。
現代では、インターネット占いや電話占いなどが登場し、占いを行なうツールがぐっと増えている状況です。
身近な占いなのでつい忘れてしまいがちですが、占いはかなり由緒正しいものだといえるというわけです。
